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セブ島で唯一の総合情報媒体「セブポット」を立ち上げ~日本での就職を経て見つけた、自分が自分らしくいられる場所 – Infopot Inc. 代表 佐藤ひろこ氏

Posted on 2015年11月24日
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11年前にフィリピン・セブ島に来て、3年経って現地で起業をした佐藤ひろこ氏。現地日本語メディアの先駆者としてメディア事業だけにとどまらず、日系進出企業や海外移住のサポートなども引き受け、セブ島のスペシャリストとして活躍している。

偶然にして運命的なセブとの出会い

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事業内容について教えて下さい。

当社は2007年にフィリピン・セブ島で私が興した会社で、今年で9年目になります。情報業として多⽅⾯に事業を展開しており、もともと1社でやっていた様々な事業を2012年に分社化しました。 まず当社の創業事業として、セブ島唯⼀の総合情報媒体『セブポット』を運営するInfopot Inc.があります。紙媒体とWebの両⽅で運営していますが、紙面も発行部数も、近年の在住⽇本⼈の⼤幅な増加とともに成⻑してきています。また、情報業で培った⼈脈などを活かして進出企業のサポートをするThe Hatena Solutions Inc.。インベストメント・ホールディングスであるCou.A Investment Holding Inc.。 これら3社で、セブに滞在される⽇本⼈の⽅々のお世話をさせていただいています。

セブで起業された経緯をお聞きしたいのですが、まずなぜ日本から出られようと思ったのですか?

私は幼い頃から少し大人びたところがあって、小学5年生の頃には「将来は日本から出るだろうな」と確信しているような⼦でした。学校での集団⾏動などにも「なぜ?」という疑問ばかりがつきまとってしまい、不登校になることもしばしば。漠然と、⽇本社会にはなじめないと感じていました。それと同時に、自分の気質上、「将来普通にどこかの会社に属してお勤めなどはできないだろうな」「いつかは自分の手で会社や仕事をしていかないと」と考えていましたね。 ⼤学時代は、夢中で外に出ていました。「海外だから大変」とか、「海外だからすごい」といった勝手な思い込みや心のハードルを早いうちになくしておきたかった。気がつけば、バックパッカーなどして30ヶ国くらい行きました。当時はまだフィリピン留学というのはなく、できるだけ日本人がいない場所で英語を学ぼうと、3年次には1年間休学をして、当時はアジア⼈さえ珍しいマルタ島にも留学しまし た。 就職にあたっては、「自分の幅を広げる為にもまずは自分の⼀番苦⼿なことをしておこう」と思い、就職活動もしました。私の⼀番苦⼿なこと=日本での就職だったわけですが(笑)。⼊社したのは当時就職ランキング20位以内に入る人気ベンチャー企業で、同期にも優秀な子たちがたくさんいました。若くて勢いのある会社でしたが、毎⽇終電で帰るような日々を1年続けていたら心身ともに非常に消耗して……。結局1年ほどで退職しましたが、今でもこの会社に入って良かったと思えるのは、同期入社組の中でも特に優秀なふたりを⾒られたことです。 日本のベンチャーで働くにおいて、「優秀な社員」というのはこういう人のことを言うんだなと。ここの場所で、私が彼らより勝ることは無いと素直に思えたんです。でも同時に自分が長けている面も感じました。「ならば、私は自分に合った場所で思い切り頑張ろう」と、清々しい程スッパリ気持ちの整理がつきました。 辞めた当初は、鬱になるくらい社会に疲れ切っていて、電車にも乗れない、家族とも会話ができないほどだったのですが、今となれば、それがとても大切な時間でした。一度精神的に落ちるところまで落ちると、へんなこだわりが無くなるんです。それまでは、幼い頃から日本の学校が合わないと感じていながらも、どこか優等生で居続けた自分から、自分らしい自分へと踏ん切りがついたのもこれがきっかけでした。 当時、アーユルベーダやハーブにはまって勉強していた私は、癒しの分野で好きな南国で働こうかなと、ネットで求人情報を見ていたら、たまたまセブ島の日系リゾートのスパ立ち上げのマネージャーの募集を見つけたのが、セブとの出会いです。学生時代の経験もあり、海外で働くことにそもそも抵抗はなかったですね。無事採用され、2004年にセブにやって来ました。

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フィリピンは、もとから好きな国だったのですか?

実は学生時代はそれほど東南アジアに興味が無かったので、フィリピンには訪れたことさえなかったんです。本当にご縁があったとしか⾔いようがありません。 スパ・マネージャーは3年ほど勤めました。英語を仕事で使うのは初めてだったので、仕事で使う英語は実践的に学んでいきましたね。この会社は⽇系リゾート会社の⼦会社としてスパ事業をしていて、最終的には単なるマネージャーとしてだけでなく売上管理や労務管理、サービス開発など事業の⼀連の流れを私に任せていただいたことはとても勉強になりました。私の上司にあたる社⻑も「小さな会社だけれど、事業の流れを押さえておけばあとは従業員が10⼈でも50⼈でも同じだから、頑張ってみなさい」と私の起業の志を汲んでアドバイスしてくださいました。 図らずも辿り着いたセブ島でしたが、働いていくうちにその良さにも気がつきました。 何より感銘を受けたのは、フィリピンが⼥性にとってとても働きやすい環境であることです。実際、⼥性管理職の⽐率の⾼さにおいてフィリピンは世界の中でも常にトップランクで、半数以上の要職に⼥性が就いています。 ⽇本がこの点に関して後れをとっているのは⾔わずもがな、⼥性が上のキャリアを望むには男性以上に男勝りに頑張らなくてはならない実情があります。仕事をとることで、プライベートや家庭⽣活など何かを犠牲にしなくてはならないこともあるでしょう。フィリピンのワーキングウーマンは仕事もバリバリしながら、子どももどんどん出産していきます。「⼥性が女性らしくありながら働いていける」。このような環境が⽇本からたった4時間のフライトの先にあるのか、と私も当初は驚いたものです。 それに加えてセブは治安も良く、英語の発⾳もきれいで、日本からも近い。また、コストパフォーマンスも⾼いという観点から、ここで起業するイメージが私の中で現実的に湧いたのです。

その後、どのようにして独立までこぎつけられたのですか?

今では総合情報メディアとして現地でも知られた存在になった当社ですが、事業を最初から コレと決めていたわけではありません。12年前、初めてセブに来たときから情報の少なさには不便を感じていました。当時は空港に英語表記の地図さえ置かれていなかったんですよ。働くことになってからも、何が新しい情報で何が流⾏っているのかが分からない。情報を仕⼊れるとすれば新聞、ラジオ、あとはクチコミくらいでした。「せめて1社くらい、情報を扱う会社があってもいいのに……」と言うのはセブにいる間、私⾃⾝がずっと思っていたことで、それが3年経っても状況が変わっていなかったので、⾃分で⽴ち上げることにしたのです。 当初から私が強く抱いている想いとして「私がセブのイメージを変えたい」ということがあります。当時はまだ、⽇本でフィリピンと聞くと「夜の街」というイメージが否が応でもつきまとっていました。実際に住んでみると、今まで旅した他の国の方がよっぽど危険で、セブは女性がひとりで歩いても危なくないし、人々はフレンドリーだし、知られているイメージと随分違うなと思いました。情報業を志したのは、こんな想いも少なからず関係していたように思います。 しかし事業について詳しく調べていくと、セブでは印刷料金が⽇本以上に⾼いことが判明。当時は広告業自体がなかったので、オーナーが広告にお⾦を出すという感覚が薄く、計算すると「やっと廻る」程度にしかならないなと言う感じでした。そこで、情報誌を大きな名刺代わりにして、将来的に事業を多角化していこうと決めて事業を始めたのです。それほどに、(今もですが 笑)10年前はまだセブのマーケットが小さかったと言えます。やると決めたからには、とにかく始めてみようと2007年に紙面・ウェブ媒体の両方で「セブポット」をスタートさせました。

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