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たったひとりでも世界は変えられる~社会変革を起こせる人になりたい – Microsoft Singapore シニアマネージャー 岡田兵吾氏

Posted on 2015年05月12日
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マイクロソフトのシンガポール法人でシニアマネージャーを務める岡田氏は、仕事に勤しむ傍ら、グローバル人材を育成するセミナー開催やワークライフバランスについての講演、ボランティア活動、コラム執筆、子どもの教育に関することなど様々な社会活動にも積極的に取り組んでいる。

想定外だったシンガポールでの就職

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オフィスでリーゼントにサングラス姿。独自のスタイルをお持ちですね!

昔から欧米、特にアメリカのヒッピー文化やハードボイルド、バックパック旅行などへの憧れが強くて、会社員になってからもずっとこのスタイルを維持しているんですよ。苦手に思う人もいるかもしれませんが案外好いてくれる人たちも多くて。 前職ではアジア域内のものづくりの現場に出向く機会も多かったのですが、行く先々で物珍しがられると同時に皆さんとても良くしてくださいましたね。

岡田さんはマイクロソフト・シンガポール法人でどのようなお仕事をされているのですか?

実はマイクロソフトで働くのは今が2度目なのですが、今はライセンス・コントラクト・コンプライアンスという部署でシニアマネージャーを務めています。 マイクロソフト・シンガポール法人がアジアにおけるライセンサーなので、ライセンス契約の統括拠点となっているんです。私はアジア各国、特に日本と韓国における当社ライセンスの最適化を推進する仕事をしています。 日系企業で言う「駐在」という概念が欧米企業にはありません。私もシンガポール法人で採用された一社員として働いています。

昔から海外への興味が強かったそうですが、幼少の頃から海外にいたのですか?

いえ、私は帰国子女だったわけでもないですし、入学した同志社大学では工学部にいたんです。ただ英語を話すことに強い憧れはあったので、飲み会で帰国子女の子たちが英語で会話していたことに衝撃を受け、英語力を上げる努力をしました。ESSに入部したり、奈良の東大寺で人力車引きのアルバイトをしたんですよ。外国人観光客が多いところですからね。外国人を見かけるたびに話しかけて英語力を磨きました。 当時の夢はジャーナリスト。「国際的に生きたい!」そう思った私は大学4年生の時に、交換留学制度を使ってアメリカ・オハイオ州に留学したのですが、見事に出鼻をくじかれました。日本でも経験のあったアメフトでは全く歯が立たない、一生懸命英語で伝えても「What did you say?」と問い返される始末で、「Sorry. I can’t speak English.」が口癖のようになっていました。そんなことないよ、と慰めてくれる人もいるけれど自信はつかないままでした。 そんな中で仲間に誘われて、週2回障碍者やホームレスのための家づくりや、炊き出しのボランティアをするようになりました。ある時、障碍者の皆様の家づくりのボランティア活動をしていた際、お世話をした障碍者が出ない声をふりしぼって必死で感謝の言葉をくれたんです。言葉は介さなくても気持ちが伝わる瞬間は確実にある、と体感したことは私にとってブレイクスルーするきっかけを与えてくれました。言語はもちろん大事ですが、それだけではないということを実感しました。 また、アラバマでハリケーン災害があった時も、ボランティアの為に車を借りて10時間以上かけて駆けつけた時がありました。そこで偶然にも、憧れの「公民権運動の母」ローザ・パークス女史が40年ぶりにスピーチするとのことで参加したのですが、そこで見た光景は生涯忘れられないものとなりました。最前列を陣取っていたのですが、周囲にいる黒人の人々が泣きながら彼女の話に聞き入っているのです。私より体の大きな大人たちがボロボロ涙をこぼしているんですよ。彼女が起こしたアクションがマルコムXやキング牧師を動かし、アメリカ社会までも動かした。「ひとりの小さな女性が社会を変えた」ことに改めてストレートに感動し、私自身もそのように社会変革(ソーシャル・チェンジ)を起こせる人間になりたいと強く思うようになりました。

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最初から海外で就職されたのですか?

当初はバックパッカーやアメリカでの経験を活かして国際ジャーナリストになることを目指していたので大手通信社に入社したいと思っていました。国際ジャーナリストが夢だったのもありましたが、何より自分が適任だと信じ込んでいました。 なぜなら、ローザ・パークス女史の集会では唯一の日本人参加者としてCNNから取材され全米に放送され、またアラバマのハリケーン災害の際にはボランティア活動が高く評価されてアラバマ州と留学先のオハイオ州の州最大の新聞に載りました。これらのマスコミの紹介により、留学先大学の学長をはじめ大学中で話題になり一躍時の人となりました。これだけの経験をしてきたのだから必ずジャーナリストになれると信じていましたが、見事にすべてにおいて玉砕! ジャーナリストへの道は絶たれてしまいました。

okadahyogo_article3(写真)アラバマのハリケーン災害ボランティアの様子がオハイオ州最大新聞Plain Dealerに紹介されたときの記事激しい失意の中、ボランティア仲間の言葉を思い出しました。「ボランティアは後からでもできる。まずはボランティア活動にお金を集められる仕組みをつくらないと」。阪神大震災の記憶も新しく、社会の仕組みを変えなくてはという考えもあった私は、ジャーナリストとしてでなく、「企業の医者」と言われるコンサルタントとして社会変革を目指すために、1997年にアクセンチュアに入社しました。 企業の変革をお手伝いする仕事はやりがいがありました。幸いにも、海外派遣プログラムの日本人チームリーダーに選抜され、海外長期派遣も2度経験させてもらいました。日本においても外国人パートナーの下、数々のグローバルプロジェクトを経験しコンサルティングの仕事を楽しんでいましたが、次第に長期で海外で働きたくなり転職活動を始めました。 まずはアメリカの職を探しましたがまったく良い案件はなく、やっとのことで見つかったベルギーの案件で内定をもらいましたが、内定後すぐにベルギー支店が閉鎖となってしまいました。また失意のどん底にあった時、たまたまアメリカで出会ったヘッドハンターから連絡をもらい、受けた案件が、ここマイクロソフトのシンガポール法人でのお仕事でした。 正直、最初シンガポールと聞いたときは「へ?なぜ?」という感じでしたね。今でこそ日本での注目度も高いですが、今から11年前の、それもアジア一帯がSARS被害にあえいでいた翌年のことですからね。しかも革ジャンにリーゼントのハードボイルドな世界観が好きな私からしてみたら、Tシャツ・短パンの南国らしさは相容れないものでした (笑)。 しかしこの機会を逃すと海外で働く機会を完全に失うかもしれない恐怖から、シンガポール行きを決めました。シンガポールを知っていくうちにシンガポールやアジアの魅力がどんどん分かり、急に興味が湧き上がりました。驚かれるかもしれませんが、当時から既に多くの欧米企業はシンガポールをアジアの主要拠点と位置づけていました。欧米人がアジアで住みたい国ランキングでは9年連続でナンバー1だったのです。 アジアというエリアの特性上、人種・国籍・宗教が同一ではなく入り乱れていて、市況も短いスパンで変化しやすく、欧米市場を経験した人でも難しいからこそ、自分のキャリアを磨く、他の日本人と差別化するには最高のマーケットだと感じました。 また2030年、世界の人口の半分強を、日本を除くアジア(ASEAN、インド、中国)で占めることが予想されていて、中間層もどんどん存在感を増してます。一方、欧米・日本などのビジネス成熟国では、イス取り合戦のイス自体が減っていく状態です。急激にアジアのマーケットに魅せられていく自分がいました。何より、海外に出るチャンスを逃したくなかった。そうして11年前、シンガポールにやって来たのです。

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