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日本に恩返しをするために、私だからこそできる仕事-アジアンブリッジ株式会社阪根嘉苗氏はなぜ日本と台湾の架け橋を志したのか?

Taiwan
日本とアジアの架け橋として日系企業のアジア進出支援をするアジアンブリッジ株式会社代表取締役の阪根氏。台湾で高級日本料理店を経営する両親の影響により、 幼いころから自らも経営者を志す。現在は台湾進出に特化した海外進出サポート及びコンサルティングを行い、特に化粧品や健康食品、Webサービスの支援を得意とする。日本の商品やサービスを台湾・アジアで広めるべく、台湾と日本を中心に活動中。

アジアンブリッジ株式会社  代表取締役

2014.05.07

2つのアイデンティティに挟まれた学生時代

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現在台湾で事業をされていますが、阪根社長と台湾の繋がりを教えて下さい。

私は6歳の時に来日して以来、日本で義務教育を受けて育ちました。

両親は日本語を話すことができないのですが、なぜ台湾人家庭のなかに生まれた私が日本に移住することになったかというと、祖父母が日本のことを大好きだったから。

祖父母は日本が台湾を占領していた時代に育ったのですが、その時にインフラを整えてくれたり、教育を施してくれたりした日本人に非常に感謝と親近感を覚え、他の多くの台湾人と同じように親日感情を抱くようになったのです。

今でも祖父母は日常から台湾語でも中国語でもなく、日本の統治時代に日本人から学んだ日本語を好んで話します。

日本人が大好きな祖父母は私にも日本人のようになって欲しいと考え、私に日本の教育を受けさせようと移住を決意しました。仕事が忙しかった両親は、私が生まれてからすぐに子育てを私の祖母に任せていました。そのような経緯もあり祖母に連れられるがまま、何の疑問も持たずに祖母と日本で暮らすようになりました。

日本で日本人のように暮らすことに憧れがあった祖父母には「台湾のことは忘れて、日本人として生きなさい」と言われて育ち、自分が台湾人であるということを友人にもひた隠しにしていたのを覚えています。

ふたつの国のアイデンティティに挟まれて大変だったのでは?

まさに、人生を通して葛藤の連続でした。小さい頃は、「あなたは日本人なのだから、日本語を話し、日本人として生きるのよ」と言われて育ったため、自分の中では完全に日本人として生きていました。

しかし、なぜ台湾人である事実を隠さなければいけないのだろうという漠然とした疑問は常に持っていました。高校生の終わり頃に、その疑問を祖父母に直接投げかけて、日本と台湾の歴史や親日的な台湾人が多い理由を知ったのです。

祖父母が、台湾人である私を日本人として育てたかったということを理解できた時に、初めて自分のことを台湾人だと認識するようになりました。そして、もっと台湾のことを知りたいと思うようになったのです。

私だからこそ「架け橋」になれると思った

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どのようにして自分のもうひとつのアイデンティティである台湾のことを知ろうとされたのでしょうか?

大学時代はなるべく早く単位を取得し、残りの1年ほどの時間は台湾で過ごしました。

生まれて初めて両親と共に生活をし、深く話をすることで、台湾人である自分と向き合うことができたのですが、それと同時にそれまで日本人として生きてきたアイデンティティが時折崩壊し、自分とは一体何なのかと悩むこともありました。

しかし、私は、ある意味では台湾人でもあり日本人でもあるので、そんな私だからこそ日本にできることがあるのではないかと考え始めたのです。

そして、自分の過去の境遇を活かして台湾と日本の架け橋になるような仕事がしたいと思うようになり、その使命感から、この会社を作ることを決意。

私を育ててくれたのは周りにいた先生や友人、近所の人などの「日本人」であり、日本語や中国語、台湾語を喋ることができ、日本と台湾を股にかけて仕事ができているのも、今までお世話になった人たちのお陰です。

私自身も日本に恩を感じていますし、祖父母の時代に与えられた恩すらまだ返し切っていないと思う。だから、そんな日本への恩を、私が返したいですね。

そこから「架け橋になりたい」という考えに至ったのでしょうか?

思いはありましたが、最初は何をしたらいいかわからなかったので、大学院卒業後6年間リクルートエージェント(現リクルートキャリア)で働きました。

その間も「起業して日本と台湾の架け橋になりたい」というビジョンは持ち続け、30歳で起業したのですが、周りからは大企業に6年間も務めた人間が独立して成功するのは難しいと言われ、実際に大変なことばかりでした。

新卒一社目の会社の文化から受ける影響は大きいと思いましたね。しかし、ここで培った営業力は事業をするうえで非常に役に立ちました。

日本と同じように、飛び込み営業で仕事を創った

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台湾での事業をどのように始められたのか教えて下さい。

日本と台湾の架け橋になるためにできることを考えた結果、まずは日本の良いものを台湾に売ってみることにしたのです。スーツケースに日本の伝統工芸品や食べ物、職人さんが作ったバッグや真珠などをたくさん詰めて、1ヶ月に2回くらい日本と台湾を往復するようになりました。

当時台湾では非常にテレビ通販が流行っていて、「日本の良いものはきっと喜ばれるはず」と思い、前職で培った力を活かして次々と通販会社を飛び込み訪問したのです。

多くの会社が最初は門前払いだったのですが、粘り強く交渉を続けるうちに、徐々に商談の機会が増え、会議が定例化し、1年くらい続けてようやく1品2品扱ってくれるようになりました。

当時は何からやれば架け橋ができるのかわからなかったこともあり、今思うとがむしゃらだったんだと思います。

最初は日本のメーカーと台湾の通販会社をつなぎ、商談が成立したらメーカーからキックバックをもらうという仕組みでした。

うまくテレビ通販への卸し事業がまわりはじめたと思った矢先、2年目くらいから今度は台湾の通販会社と日本のメーカーとの板挟みに苦しむようになったのです。

台湾の通販会社からの要望で、私を窓口にして日本の商品を入荷することになり、日本側のエージェントでもあり台湾側のエージェントでもあるという事業が成立するようになりました。

初めての事業が上手く回りだしたのですね。

しかし、2年目くらいから今度は台湾の通販会社と日本のメーカーとの板挟みに苦しむようになったのです。

当時はジュエリーや雑貨を中心に扱っていたのですが、取引を続けて行くうちに、台湾の通販会社から「台湾では日本の3分の1の値段でしか売れない。日本の企業に交渉をして、もっと安くして欲しい」と言われ、日本のメーカーに交渉に行ったのです。

すると、職人さんたちから「阪根さんは私たちの製品の良さを理解してくれていると信じていたのに、安くしろと言われるなんて悲しい。もう台湾には進出しない」ときっぱり言われてしまいました。

その時から、私が日本と台湾の架け橋になるためにやりたかったことは、こういうことだったのだろうかと深く自問するようになりました。人件費が高い日本の商品を台湾で販売すると、日本と同じ価格でも、台湾人にとっては2倍くらいの値段に感じてしまうのです。

そのため、仲卸事業では利益を出すのは難しく、とはいえ日本の商品を安く買いたたくのも自分のやりたかったことと違う。それならば、仲卸事業ではなく直販にして物流や受発注、決済一連の仕組みをすべて自分達でやろうと決めました。

この時の決断が、今の事業に繋がったのです。

 

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