ABROADERS

  • HOME
  • 【前編】学生時代の野望を胸に、ミャンマーでマイクロファイナンス事業を立ち上げる〜Money Buffet Company Limited. COO 萩原豪介氏〜

【前編】学生時代の野望を胸に、ミャンマーでマイクロファイナンス事業を立ち上げる〜Money Buffet Company Limited. COO 萩原豪介氏〜

Posted on 2017年03月15日
0
6345

在ミャンマーにてローカル向けにマイクロファイナンス事業を中心とした事業を展開されている、Money Buffet Company Limited. COOの萩原豪介氏にお話を伺いました!


学生時代からの思いを今実現されていて、とても真っすぐな思いを持ち続けている方です。前編ではミャンマーに行く前に、日本で働いていた頃のお話をしていただきました。

何かをするには、資本力が必要だと気づいた

——学生の時から「社長になりたい」という夢をお持ちだったのでしょうか?


萩原:いいえ。学生の時はビジネスに興味がなく、当時はNGONPOJICAの青年海外協力隊などに興味がありました。しかし、たまたま取った大学の授業で出会った教授から、「貧困撲滅や途上国支援をするにしても、力がないと何もできない」ということを言われ、目指す方向性が変わるように。大学3年時に紛争解決をテーマにしたゼミに入り、国連の職員と議論できる2週間の国連研修プログラムに参加しました。


そこで衝撃を受けたのが、1万円の寄付をすると、ロビー活動や職員の給料などが差し引かれ、対象者に届く金額は約4000円程度という話でした。そして偶然、翌日国連職員たちが「給料が低い」という理由でボイコットを行い、その状況を見てさらに驚きました。理想や憧れを抱く学生だった私は、世界を救おうとしている集団が、給料が低いという理由でそういった行動を起こすことに対してショックを受けたのだと思います。


何かをするには確かに「力」が必要です。力にも「暴力」「権力」「資本力」いろいろとありますが、色々と考えた結果行き着いたのは、「ビジネスは資本を最適化して付加価値を産むものだ」という考えです。さらに、もし自分にお金があれば、「矛盾のない」児童基金を作ることができる。そしてそれをビジネスとして回すことができれば、基金にいただいた寄付金を、限りなくそのままの金額に近い状態で対象者に届けることができるのではないか、と思うようになったのです。この頃から、ビジネスに興味を持つようになりました。

子どもたちが平等にチャンスを掴める社会にしたい

——その後の就職活動では、どのような企業を受けられたのでしょうか?


萩原:大企業も数社受けましたが、すぐに経験を積むことができるベンチャー企業に就職を決めました。きっかけは、ある時教授から「既に上している企で出世するよりも、中小企の社の方が、自分で使えるお金や行の自由度が大きいはず」と言われたこと。このから、いつか起して、ゆくゆくは自分の理想とする童基金を立ち上げることをげるようになったのです。


——「寄付金を集めてできるだけそのままの金額で相手に届けたい」という理由はわかったのですが、なぜ児童基金なのでしょうか?


萩原:努力をしない人たちまでを幸せにするという様な、偏った平等な世界にしたいという考えは毛頭ありません、ですが挑戦する機会を平等に掴める社会を作りたいと考えたからです。きっかけは、成人式の時に地元の友人と再会したことでした。彼に「将来は何をするの?」と聞かれた私は特に何も考えずに、「大学に進学したし、スーツ着てサラリーマンになるんじゃないかな」と答えました。


すると彼は、「今まで建設現場の仕事しか知らないからこの仕事を続けているけど、俺もいつかサラリーマンになってみたい」と言われて。その時に、自分はたまたま両親がいて、大学進学の費用も出してくれて、非常に恵まれた環境だということに気づいたのです。生まれた環境は変えられないけれども、せめて挑戦する機会だけでも平等に子どもたちが享受できるような社会になって欲しいと思い、今後の人生で「児童基金を立ち上げる」という夢を掲げるようになりました。

商社の仕事には、ロマンが詰まっていた

——就職活動の結果、1社目はどのような会社に入られたのでしょうか。


萩原:大手商社の社内ベンチャーに入りました。当時スタッフは約50人。在籍した5年間はずっと営業職だったのですが、担当業務が経営者に会いに行くことができたので、将来独立する上でこんなに適した環境はないと思っていましたね。ここで習った感性を未だに使って仕事をしているので、1社目の経験は非常に重要だと思います。私は商社の仕事が大好きでした。この仕事には、ロマンがあります。


商社では、入社してある部門に入ると、そこから他の部門に移動することはほぼありません。食品であれば食品、鉄材であれば鉄材に、ずっと関わっていくことになります。だからこそ、長期的に相手と関わることが可能です。「商社は50年先に投資する」と言われるのは、それが所以ですね。そうやって相手を応援して、一生ロマンを見てもらいながら、一緒に頑張っていける−−そんな仕事を誇りに思っていました。


——この会社では海外との関わりはあったのでしょうか?


萩原:最初は国内だけだったのですが、入社して4年目の冬に海外ビジネスをやろうという話になり、シンガポールとタイに関わりました。きっかけは、社長から突然「今から中国出張に行くけど、一緒に行く?」と冗談で誘われたものの、その場で「パスポートを持っていない」という理由で連れてってもらえませんでした。


これがとても悔しくて、それから毎日パスポートを所持するように。すると半年後にまた社長から、「今からシンガポール出張に行くけど、一緒に行く?」と聞かれたのです。その場でパスポートを見せ、なんとその日の11時に言われて17時の飛行機で一緒に行かせてもらえることに! 朝の出社時の、スーツに鞄という出で立ちのまま、シンガポールに降り立ちました。それが私にとっての初めての海外出張でしたね。


——初めての海外出張でシンガポールに行き、どんなことを感じましたか?


萩原:タイやカンボジアには学生時代にいったことがあったのですが、ちょうど東日本大震災直後だったこともあり、シンガポールの発展度合いに衝撃を受けました。ここだったら何をやっても成功するのではないかという熱気を感じましたね。


シンガポール政府と一緒にフランチャイズを広げるための事業を始めたのですが、そう簡単にはいかず。結局、1年間毎月シンガポールに行って画策したのですが、事業は成り立たずに撤退。タイで行っていた寿司屋の進出支援事業などもなかなか進まず、会社としては違う新規事業をすることになりました。その時に自分のことをふと振り返り、世界で戦うにための自分の能力のなさと、それを改善するためにこのままこの会社でやり続けていいのだろうかと考えるように。


仕事は楽しかったのですが、自分にはビジネスマン、また営業職として社長を追い越せると思えませんでした。そこで、もっと自分の付加価値を付けるためには、他の「武器」を付けようと、仕組みづくりで話題だったIT分野に飛び込むことにしたのです。実は、この時ちょうど社内でJICA関連のミャンマー事業が始まりました。


シンガポールではなく、次はミャンマーに行って欲しいと言われ、足を運んだのですが、当時は「自分の将来につながるビジネスのチャンスはあまりなさそうだ」と思い、悩んだ結果転職を決意。でも、今はミャンマーでビジネスを立ち上げているので、人生はどうなるかわからないものですね。


▶【後編】金融を通じて、ミャンマーで「国づくり」という壮大なロマンに関わる〜【会社名&役職名】萩原豪介氏〜


【プロフィール】


萩原 豪介 / Hagiwara Gosuke


1985年生まれ。東京都町田市出身。地元の高校を卒業後、青山学院大学卒業。大手総合商社の社内ベンチャーにて小売業、外食産業を中心にフランチャイズ開発、MA仲介などのマッチングビジネスの新規開拓に従事。その後、ウェブ総合広告代理店にて金融業界を中心とした運用型広告の営業に従事した後、ミャンマーに来緬。現在Money Buffet Company Limited.にてマイクロファイナンスを中心とした金融事業に携わりながら、人事部代行を最終ゴールとした人材紹介事業、ミャンマーで一番親切で情報量の多い不動産屋を目指して不動産仲介事業従事。進出から進出後までヒトモノカネをワンストップで支援するコンサルティング事業をI.G.C.Co.,Ltdにて展開。

経験した日: 2017年03月15日

Ambassadorのプロフィール


濱田真里

海外で働く日本人に特化した取材・インタビューサイトの運営を2011年から続けている。その経験から、もっと若い人たちに海外に興味を持って一歩を踏み出してもらうためには、現地のワクワクする情報が必要だ!と感じて『ABROADERS』を立ち上げる。好きな国はマレーシアとカンボジア。

濱田真里さんが書いたノート


ミャンマー に関するノート