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アッサラーム・ワライクム と ノモシュカール【突撃!隣の彼女の海外ライフ】

Posted on 2017年05月19日
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こんにちは。この度バングラデシュ担当になりました、現地在住3年目の原田夏美です。


初回記事のタイトルに選んだ言葉は、この国の挨拶で、「アッサラーム・ワライクム」は国の大多数を占めるイスラム教徒(90%)の、「ノモシュカール」はヒンズー教(8%)、仏教・キリスト教・アニミズム(合わせて2%)の人々が使います。


こんにちはとさようならの両方の意味があり、出会った矢先と別れ際にも交わすので、バングラデシュにもし来る時は、みなさんにも是非『両方』覚えてみてもらいたい言葉です。


Hello!でも伝わりますが。 


また、最初の挨拶のために選んだ写真は、この国のチャクマという少数民族の伝統織物ピノン・ハディを纏った一枚。


初めてオーダーから織ってもらい、この4月のお正月に着ました。


場所は、私がもう故郷と呼んでしまいたい地域、チッタゴン丘陵地帯のランガマティ、カプタイ湖の前です。


アンバサダーの役目をいただいて、何から順番に伝えよう…と溢れんばかりの気持ちです。


バングラデシュを伝えられる人は他にもいますが、“私らしく” “私にしかない感性で” お伝えする役目ということで、ちょっとマニアックにはなりますが、この国の少数派(マイノリティ)の人々のことや、映像制作者としての活動を生かしながら、展開していきたいと思います。


バングラデシュの多数派(マジョリティ)情報も、自分はおさらいしつつ、伝えていきたいと思います。


まず今日は、かんたんに私の渡航きっかけと、今ここで暮らす目的や目標などをお話していきたいと思います。


 

2014年、夏〜 バングラデシュで暮らし始める

バングラデシュへ初めて訪れたのは2010年、当時日大芸術学部の2年生で、進級課題である10分のショートドキュメンタリー(課題名「ある男」)を制作するために、友人とともにやって来ました。友人はその ‘ある男’ の婚約者でした。


ちなみに、これが私の初飛行機・初海外の経験です。ストリートチルドレンのための教育施設(NGO)を運営するその日本人男性を主役に、彼の活動地である首都ダッカと田舎のマイメンシンという2つのロケーションで撮影をしました。


一週間という短い滞在でしたが、私はこの時に、大きな人生の岐路に立ちました…


ドキュメンタリーがこんなに感動的で、その制作が私の心を満たす気持ちと、


バングラデシュ好きだな…という気持ちに出会い、それが、私の今になってます。


それから2年後の2012年、卒業制作としてもう一作バングラで作りたい!と再バし、その時は約2ヶ月間滞在しました。 


大学卒業後、ドキュメンタリージャパンという憧れの会社に入ることもできました。


しかし、バングラデシュに行く度に、心を置いてきてしまうような、日本に居ても、バングラが中心みたいな心持ちで過ごしていて、悶々とした想いだけが募り、きちんとしたバングラでの居場所や計画はないままに、それでも、まずは一年は暮らしたい(戻る気はないのでなんとかその間に居場所を見付けるぞと)、そして ‘暮らしながら’ ドキュメンタリーが作りたい、という前回までの後悔を反映する目標を持って移住したのでした。


ちなみにそれが、人生初の一人暮らしでもあります。


 

バングラデシュはベンガル民族とイスラム教の国、だけど…

2012年、ニ度目の渡航時(卒業制作のため)は約2ヶ月の期間で、バングラデシュ ‘らしい’ と想定した事項をあえて計画して経験するように過ごしました。それはドキュメンタリーのコンセプトが、主役である日本人女性が暮らし始めて一年目のバングラデシュを経験する模様だったため、基本的な風景をまずは詰め込みたかったから。


頭に浮かべていた、例えば、ムスリム行事のラマダーン(断食)やイード(休暇)の過ごし方、青空教室や学校風景、リキシャ、交通渋滞、停電、ベンガル料理、古典ダンス、建国の父…などについて撮影しました。


その中で、予期せぬハプニングはもちろん起きたし(良いことも悪いことも)、現地の友達も少しですができ始めました。


だいたい今思えば、この予期せぬ出来事の方が、後々の心残りや次の関心に繋がって、今も惹かれていたりします。


ある友人(一家)との出会い…その日は撮影計画外で友人宅に集まっていて、お決まりの停電になって…停電なら!と、蝋燭に火を灯して、歌を歌おう!ということになりました。


その歌を聞いた時から…それより、その友人と出会ってほんの少しだけど一緒に過ごしていた些細な時の雰囲気から、なんだかずーっと ‘好きだな’ …と気になっていました。そしてその歌の夜に分かったのが、その友人がガロ(Garo)という名のこの国の少数民族だということでした。


ダッカで暮らすそのガロの一家は、服装や言葉はベンガルのものを使っているけれど、ぱっと見顔立ちが少し異なり、話すベンガル語も聞きやすくて…ベンガル語を学び中の私にとって、それも親しみやすさを感じた要因でした。


彼らのベンガル語がちょっと聞きやすいのは、少数民族もベンガル語を国語として学んできたため。彼らは本当はガロの言葉(マンディ: Mandi)を持っています。聞くと、宗教もガロの場合はキリスト教で、村ではお酒も作って飲むし、豚も食べると…このあたりは、今後ゆっくりと伝えていきたいと思います。


ともかく、この国に少数民族がいるということを知ったことはまた大きな人生の岐路で、正直に言うと、彼らの存在を知ってからの方が、ものすごい強さと速さでこのこの場所に惹かれていきました。


2014年、住み始めた頃は、家探し、生活を送ること、言葉、健康管理、安全、ビザのことなど…まずはそれらを整えるのが本当に大変で、いちばんやりたい映像制作に取りかかるのになかなか時間がかかり、テーマ探しを続けていました。


ある時、毎日というか1日に2〜3度、道で「チャイナ!」か「チャクマ!」と現地人(マジョリティであるベンガル人)に自分が野次られていることに気が付きました。この経験は、観光客でも経験できるくらい日常的だと思うし、日本の道徳なら信じられないくらい、あからさまに、知らない人からわざわざ大声ですれ違い際に言われます。チャイナなら中国人に思われたのかと理由も分かるけど、チャクマって何?となり、調べると…


バングラデシュ南東部のチッタゴン丘陵地帯という場所を故郷に持つ、少数民族「チャクマ」のことなのだと判明しました。


そして、そこへ初めて訪れてみた2015年2月…私にとってこれは、今のところ、最高の運命の出会いでした。






※2015年2月、辿り着いたチッタゴン丘陵地帯で少数民族の子どもたちに会う。


おそらくみんな一年生くらいで、彼らもまだ国語であるベンガル語は学びたて。まだベンガル語しか話せなかった私が無言でいると「ホダホイセナ!」(ベンガル語で「話せないよ!」)と笑われたので、唯一覚えていた少数民族語(チャクマ語)で「ゴマゴッチ?」(元気?)と聞くと、いっせいに「ゴマゴン!」(元気だよ!)と返事をしてくれた…


 





マイノリティの人々にシンパシーを感じて

少数民族、チッタゴン丘陵地帯という場所、そこだけに限らないバングラデシュのいくつかの田舎…


それらを好きになるのは、本当に小さく些細なこれまでの経験の積み重ねや、まさに細胞レベルで共感や居心地の良さを感じたからで、ひとつの理由で繋がったわけではないから、そんな経緯や風景も、これからここで共有したいと思うのですが、ひとつ私の個人的理由で、このマイノリティの人たちに共感をして、一緒にいたいと感じてしまった。


多分このせいかな…?と後々少しずつ気付いたものがありました。


それは、私も日本で暮らしていた時、子供時代から学校や会社と、どこにいても、


なんだかマイノリティだった…という思い出。


ちょっと変わり者扱い…それが自分の弱点とか劣勢とは思ってなかったけど、そんな自分をうまく生かせない時は、ただ孤独を感じたり窮屈に思ってしまっていました。


今はもうそう感じたことも忘れてしまっていたくらい、この場所でそれに気付き遅れさえしたけど、ずっと、何でかな、何でかな…としっくりくる答えを探っていたら、あ!とそれに合点がいきました。


 


苦労することやちょっと辛いこと、そしてその反面の喜び…


あと、自然や山の生活を愛する性質、お酒を飲むって楽しみ方の文化…


そういものが一緒って、言葉が一緒なのなんかより、なんてシンパシーを感じるんだろうと私は思いました。


しかし、この国のマイノリティの人々の具体的に抱えてる問題は、そんな私の共感どころで済まされるものではなくて、政治的に統一化されそうになったり、軍事的に見張られたり、土地を追われたり差別を受けたりというレベル。


マジョリティとは、宗教も、文化も、顔の系統までも違っていて、なかなか相容れず関係がこじれるのも、ここにいながらよく分かる感覚です。


バングラデシュの場合、多民族国家として立っている感じではなく、また他の国と違って少数民族の文化が観光名物とか、村がリゾートのようになってしまってる類いのものじゃなく、まだ素朴に、そこにふつうの生活としてある感じだから、そして私は、このふつうの生活を送るまま彼らが尊重されてほしい…と願うので、


外の世界に窓がどんどん開かれていくとしても、マジョリティ側の政策によってじゃなくて、


できるだけ原住民の人々が考えて、自身のペースで、夢見るようにできたらいいなって…


 


しかし、私が彼らと出会って2年(まだたった2年)は、そう願っても阻まれたり、うまくいかなかったことばかり…


でも現住民のみんなは、「僕たちは生まれた時からそうだよ」と言います。


こうして私は、ドキュメンタリーを撮るだけが目的じゃなくて、ここの人たちにシンパシーを感じながら、もう気持ちは当事者のように…


日本にいた頃よりも感情をフル回転しながら、七転び八起きで生きています。


怒っても、泣いても、その方が幸せだなと感じながら。 


 



 






バングラデシュと少数民族と私のこれから。

経験した日: 2017年05月15日

Ambassadorのプロフィール


NatsumiA

1985年生まれ、青森県育ち。日本大学藝術学部映画学科在学時に、ドキュメンタリーの課題制作がきっかけでバングラデシュを訪れる。卒業後、映像制作会社の勤務を経て、2014年より単身でバングラデシュに暮らし始める。主な活動地は、チッタゴン丘陵地帯や国境沿いの地域で、少数民族と深く関わり、写真・映像制作を行っている(ドキュメンタリー作品『One Village Rangapani』【国際平和映像祭2015 地球の歩き方賞 および 青年海外協力隊50周年賞受賞】、写真集『A window of Jumma』【クラウドファンディング】など)。現在は、ロヒンギャ難民キャンプにも活動を広げ、ChotoBela works という現地団体を立ち上げ、バングラデシュの子どもたちの "子ども時代 / チョトベラ" を豊かに彩ることを目標に、移動映画館(World Theater Project バングラデシュ支部代表)、アートクラス、カメラ教室、スポーツデイなどを開く。また、バンドルボン県で、クミ族とムロ族の子どもたちが寄宿するキニティウという学校をサポートしている。

NatsumiAさんが書いたノート


バングラデシュ に関するノート