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「ポカリ」がインドネシアの国民的ドリンクに! 事業をつくることは文化を創ること

Posted on 2016年11月09日
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こんにちは、公子です。 インドネシアは長い雨期に入りました。南国らしく勢いよく降る雨の音を聞きながらこの原稿を書いています。 

 

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雲が垂れ込めた空から勢いよく雨が降る

やや高めのポカリスエットが年4億本!

田んぼで過ごす時間は、色んな雑念が消えるので物事をシンプルに考える事ができます。

今回は、ふと田んぼで目に入った「ポカリスエット」の缶からのお話です。

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田んぼで見つけたポカリスエットの缶

 

田舎の家の軒先には、小さな商店がたくさんあります。

その商店で、現地の甘い飲み物と一緒に販売されているポカリスエット。1日の給与が数百円という生活者が多い、この場所でもポカリは生活に浸透しています。

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商店に並ぶポカリスエット

 

コンビニで見ると他の清涼飲料水が3000ルピア(≒25円)程度のところ、ポカリスエットは5000ルピア(≒40円)。インドネシアで年間4億本以上売れていて、日本での販売量の半分に迫る勢いです(330ml缶で換算/2015年3月時点)。

デング熱、ラマダン、地道な営業

ポカリが売り出しを始めた1997年当時は、甘い飲み物が清涼飲料水の主流だったそうです。「アイソトニック・ウォーター」という、甘くなく酸っぱい飲み物は、インドネシアの人たちには新しすぎて受け入れられなかったと聞きます。

ポカリの販売担当者によると、これまでと違う飲料水であることを理解してもらうために、

・50人ほどの販売促進員を中心に、足で稼ぐ営業を実施

・赤道直下で暑いという気候風土の中で、熱中症予防や下痢や脱水症状の際の水分補給に役立つことを地道に訴え続けた

・年間、数千回に及ぶ販促会を開催し、口コミで市場を広げた

・2004年にデング熱が大流行したことから、健康飲料としての認知度を一挙に高めた

・2005年から断食月(ラマダン)向けキャンペーンを開始。宗教に立ち入るのは良くないと躊躇する日本人に、販売員たちは「ラマダンは文化」と気にかけず、ラマダン限定のテレビコマーシャルを作り、モスク周辺で礼拝帰りの人にサンプルを配った

 など、文化や風土に根差した売り込みをしたそうです。

「小さな会議室での製造から始まり、10年かけて文化を創った」という挑戦をされた日本人の方々の経験談を直接聞くと、「地道な努力とあきらめない強さ」の大切さを改めて感じました。

食品、ではなく「食文化」を輸出

事業を創ることは、文化を創ること。

日本米しかり、寿司やおせち、七草粥しかり。

日本には四季を楽しみ、自然とともに生活をしてきた知恵が、「食」にたくさん含まれています。

寿司、ラーメン、しゃぶしゃぶ、どんぶり、たこ焼き、お好み焼きなど、国を越えた食の輸出にあたっては、時間かけて育てられてきた「食文化」を輸出するのだということを忘れてはいけません

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その国の自然と文化に育まれてきた「食」

 

長粒米が主流であるインドネシアで、日本米を浸透させていくためには、先達への感謝と、これからの我々の地道な努力が必要です

単にモノを日本からもって来るだけではなく、その地に根差して受け入れられるように、現地の人たちとの文化交流を進めていきたいと思います。 

 

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Ambassadorのプロフィール


公子

85年生まれ、福岡市博多区出身。大学在学中にイギリスのリーズ大へ交換留学。 海外就労に憧れていた私は、ハウスメイトのガーナ人に相談をしたら「日本でやるべきことが沢山ある」と言われ、一転、国内就職。リクルート「九州じゃらん」で、地元福岡のホテル・旅館の営業をしながら地域活性に従事。その後、”都市の劇場”といわれる商業施設「キャナルシティ博多」でイベントと販促の企画運営(海外アーティスト招聘、 通訳、ディレクションなど)を担当。 26歳で地元を離れ、名古屋〜東京を経て移り住んだ長野・小布施町での農業との出会いが人生を変える。米篤農家の日本米生産の現地法人立ち上げで来イし、ジャポニカ米のブランド作りに邁進。しかし経営者撤退に伴う法人解散となり、合弁先のインドネシアの日系スーパーに転職。現在は、バイヤー・デザイナー・商品開発・経営企画を兼務し、日本の外から「食」を支えるべく奮闘中。

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