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血の繋がりだけが”家族”じゃない。フィリピンから学ぶ、柔軟な“家族“のカタチ

Posted on 2017年04月19日
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あなたは“家族”という言葉から何を思い浮かべますか?

突然ですが。あなたは「家族」という言葉から何を思い浮かべますか?


両親の顔が浮かびますか?兄弟、姉妹、それとも祖父母でしょうか?


私は現在、フィリピンのNGOにてフィリピンの人々と共に生活をしながら、インターンをしています。多くの海外からのインターンやボランティアがいますが、基本的には多くの人が無給で働いています。


このインターンにはちょっと変わった“事”があります。


それはインターン生が「Adopt(養子)」として1家庭に属することがあるということです。任意のようなもので、強制ではありませんが、多くのインターン生が「Adopt」になっています。


私自身も、ファームにインターンに来てから何度か「あなたのTita(お母さん)は誰?」と聞かれることがあり、「え?お母さんは日本にいるお母さんよ?」と不思議に思いました。


無給でボランティアやインターンが学ぶために来て働く、その代わりにコミュニティの人々はフィリピン人の持つスピリット「BAYANIHAN(相互扶助の精神)」で「食事や洗濯はうちにおいで」といってくれるのです。


 ファームに来て1週間経過し、食事や洗濯の面倒を見てくださる「Tita」が私にもできました。


はじめは、まるで“家族”と同じように食事を出してくれて、買い物に一緒に行ったりするのになかなか慣れませんでした。


そしてそれを私は「お金を払うことで返そう」と考えていたのです。


 しかし「Tita」はそれを拒否し、彼らの持つ「BAYANIHAN」について一生懸命説明し、家族だと思って遠慮せずに頼ってくれと言いました。



私の「Tita」は子供がおらず、本当に私を娘のようにかわいがってくれています。


 

血が繋がっていなくても“家族”として受け入れるフィリピンの人々

少し話が逸れますが、以前<日本を捨てた男たち>という本を読みました。


フィリピンに生きる「困窮邦人」についての本です。フィリピンには723人の困窮邦人がいます。お金がなく、日本に帰れなくなってしまった日本人をフィリピン人が世話しているケースもこの本の中で描かれています。


フィリピンでは血が繋がっていない人、またはとても遠い親戚が同居し、面倒を見ることがあります。正式に養子縁組制度は整っていないものの、「Adopt(養子)」を持つ人は多いように感じます。そして周りから見て養子であることを感じさせない程には家族と同じように生活を共にしています。 


なぜフィリピンの人々が、家族として人を受け入れるのかわかりやすい文化があります。


フィリピンでは「Kuya(お兄さん)」「Ate(お姉さん)」や「Tita(お母さん)」「Tito(お父さん)」を人への敬称として日常的に使います。


タクシードライバーも、お店の販売員さんも、近所の人も、例えば「Kuya名前(名前兄さん)」と呼びます。国全体が、皆が家族なのです。私はとにかくこの文化が大好きです。 


 

もっとシンプルに、人は“家族”同士になれる

「家族」とはなんだろうか?定義を調べてみました。


国語辞典では


夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団。


民法旧規定において,戸主の統率下にある家の構成員。


引用元:大辞泉


もっともですよね。間違いないです。


しかし、私はここに「生活を共にする人」とか「大切に思う人」などもっとシンプルな綺麗事のようなものを加えてもいいのではないかと思うのです。


ファームで「Tita」と過ごすことで私の中で「家族とはなにか」という疑問が生まれました。


“家族”と離れて過ごす中、父とはほとんど連絡を取っておらず、母とはLINEのやり取りをしている程度です。我が家では食事もそれぞれ忙しく、なかなか一緒にとることができないことも多くありました。


誤解のないようお伝えしておきますが、ここまで何不自由なく育てていただき、大学の学費を払ってもらっています。かけがえのない”家族”であり、両親のもとに生まれたことを誇りに思っていることは間違いないです。


しかし、「Tita」も私にとって紛れもなく家族です。毎日のように食事を一緒にとり、悲しいとき、嬉しいときを共有しています。


”家族のような“とはじめは言っていましたが、今は”“家族”と言いたいです。


 

血の繋がりだけが“家族”じゃない

孤独死や自殺率が社会問題となっている日本。人と人との繋がりが見えにくかったり、距離があったりするのもそれらの問題の原因の1つなのではないかと思います。


「家族には相談できない」「家族に迷惑をかけたくない」血の繋がりさえも繋がりきれないケースも多くみられます。


血が繋がっていないと本当に「家族」になれないのでしょうか?


綺麗事のようにきこえるかもしれませんが、「人は皆家族」になれたら、もう少し今よりも、暖かい日本社会になれるような気がします。


日本はもう少し、「家族」の範囲を広げてもいい、定義された「家族」にとらわれすぎなくてもいいと思うのです。


経験した日: 2016年11月01日

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Ambassadorのプロフィール


大野雛子

東洋大学文学部在籍。 大学1年の夏にセブ島へ訪れたことをきっかけに途上国の貧困問題に関心を持つ。

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