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45歳で海外デビュー、不安は自信へと繋がった – Daijob Global Recruiting Co., Ltd. 代表取締役 篠原裕二氏

Posted on 2015年08月18日
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豊富なビジネス経験を経て、篠原氏が中国に渡ったのは45歳のとき。現地での生活や仕事に苦労しながらも2年の滞在を終え、今はDaijob Global Recruiting Co., Ltd.の代表として日本におけるグローバル採用の急先鋒を担う。

がむしゃらに働き、現地にどっぷりつかった

御社の事業内容について教えてください。

当社が運営する転職サイト「Daijob.com」は1998年にオーストラリア人がスタートした、日本における外資系転職サイトの先駆けです。元々は日本に進出してきた外資系企業が、英語を使って英語人材を採用したいというニーズから始まったもので、7年ほど前に弊社の親会社であるヒューマンホールディングス株式会社が買収して今の形になりました。 語学を活かして転職したい求職者約45万人(2014年10月現在)にご登録いただいているのですが、これは日本最大級の規模です。この強みを活かして「Daijob Go Global Career Fair」という合同説明会も年に3~4回と定期的に開催しています。開催会場は外国にいるような雰囲気に包まれますね。 ご登録者の多くは2言語以上話すバイリンガルで、クライアントはかつて外資系企業がほとんどでしたが、2年ほど前から日系企業のご参画も増えてきています。2013年からはクライアントの要望に応じる形で人材紹介事業も始め、昨年からは「Working Abroad」という海外で働きたい人向けの職業紹介サイトも新たに運営し始めました。 教育や人材などの総合企業であるヒューマングループの海外進出を、グループ企業である当社が支援する形で国際間人材紹介もしており、これについてはまだ始めて間もないのですが実績を挙げてきています。 このような事業を展開する当社の日本オフィス従業員も、中国、韓国、ベネズエラ、イギリス、ロシア、メキシコからとまさに多国籍です。彼らは日本が好きで日本に来ている人たちですが、2~3年ほど日本で働いてもらったら、今度は本国の現地法人で社長をやってほしいというのが私の願いでもあります。

これまでのご経歴について教えて下さい。

新卒で入社したリクルートでは、最初は学校関係の募集メディアの営業を担当していました。クライアントは専門学校をメインとして回り、カリキュラムなどを作る際のご相談に乗るなど充実した日々でした。 11年ほど学校関係事業で働いた後は、社会人向けの教育媒体「ケイコとマナブ」で営業、編集者、編集長を務め、辞めたのは入社から19年経った2008年リーマンショックの直前でした。次の転職先を決めずに辞めていたので少し焦りましたが、Web系広告事業を展開するIT企業に入社しました。 転職を考えるにあたり、実はITと海外のふたつの軸、どちらに決めようか迷っていたのですが、「海外で働くなんて自分には無理」「英語もできないし」との思い込みもあり、まずはITの道に進みましたね。 ただ再就職して数年が経ったところで、その会社が中国・厦門市(シャーメン)にある現地企業をM&Aしたんです。しかも現地に駐在予定だった担当役員が退職することを知り、海外で働くことへの憧れがふつふつとよみがえり、「これはチャンスだ」と思い社長に直談判しました。 45歳で海外デビュー、不安はありましたよ。でも自分はどこに行っても友達がたくさんできるし、お腹も強いし、なんとかなるだろうと(笑)。そんな気持ちでいましたね。

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突然、海外に出るチャンスが巡ってきたんですね。

2011年春に上海に渡り、結局2年いました。最初の1年は上海オフィスの立ち上げをしていたのですが、会社の方針転換で閉鎖することになってしまい、その過程で私も現在のヒューマングループに転職し、もう1年現地で働いた後に2013年に日本に帰ってきました。 社会人になった当時から教育事業に関わってきた私が心に抱き続けてきたのは「学歴社会のボーダーレス化の実現」。畑違いのグローバル採用に関わる今でもこのテーマは私にとっての指針のようなものです。 日本は最終学歴によって人生の幅がかなり限定されがちですが、学歴はひとつの指標に過ぎなくて、進路はもっと自由に選ばれるべきだし、学歴以外の価値をつけられるような教育を、と考えてきました。 私にとっても45歳で海外に出るというのは少し勇気の要ることでした。だからこそ若いうちに海外もどんどん見ておくべきだと思いますね。

上海ではどのような生活を送っていたのですか。

前職で上海オフィスの立ち上げを任されてから1年はとにかくがむしゃらでしたね。それまで中国には香港・マカオに旅行で行ったことがある程度で、中国本土に行くのは初めてでした。 日本に妻と子ども3人を残して現地ではひとりで生活していました。中国語はピンインという発音方法だけ渡航前に学んでいきましたが、あとは現地で実践あるのみで身につけていきましたね。 最初は大変でしたよ、タクシーに乗るのにもひと苦労でした。漢字が通じるので最初はメモに行き先を書いて運転手に渡していたのですが、しばらくしてそれでは上達しないと思い直し、話すように切り替えました。Google翻訳で発音を50回位繰り返し聞いて練習してからいざタクシーへ乗り込んでも、直前にふと忘れてしまうので、あとは臨機応変に乗り切って、中国語を話す術を学んでいきました。 食事も日本食レストランでばかりとっていたのを途中で改めました。立ち上げということでほとんどの時間をひとりで過ごしたことが大きいとは思いますが、現地にどっぷりつかった生活でしたね。上海にいる日本人を見ていると、3ヶ月くらいで現地に馴染む人と日本を捨てきれない人、2種類に分かれるように思います。

現地での生活や習慣に馴染むように努力されていたのですね。

最初の1年は、ずっとひとりでいましたからね。やっとの思いで現地法人を立ち上げてサービス開始間近のことです。家族も上海に呼び寄せてこれからだというところに、日本本社から方針転換と閉鎖の通達が来ました。家族が上海に来てまだ1週間経ったばかりですよ。それに自分にとってもまだ1年しか経っていませんから「このままでは何をしに来たのかも分からない」「まだ帰りたくない」、そう強く思ったんです。 ただし撤退は既に決定済みのものでした。結局私は会社を辞めて上海に残ることを決め、幸いにもそれまでの人のご縁によって今の会社に転職するお話をいただき、現地での転職を果たしたわけです。

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