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国籍や所属に縛られず、実力で勝負する〜ミャンマーのAmiways Company Ltd. Managing Director 羅 和益氏〜
グローバルな舞台で、国籍に捉われずに活躍したかった
———羅さんは在日韓国人として日本で生まれ育ったと伺っています。
そうですね。このバックグラウンドは私の人生に大きな影響を与えています。在日外国人という理由で十分な教育の機会を得ることができなかった両親から「周囲に認めてもらうためには人一倍の努力が必要だ」と教えられた私は、普通の人以上に頑張らなくてはいけないという強い想いを抱えながら育ちました。
そのおかげもあって、中学から都内の名門中高一貫校に進学。勉学に励みながらキャンプテンとしてバレー部に所属し、文武両立を目標に学生生活を過ごしました。部活動では自主性を重んじる風潮があったので、自分たちで練習試合のアレンジまで行いましたね。チーム一丸となって試行錯誤する力は、部活動の経験を通じて培ったのだと思います。苦楽を共にした当時のメンバーとは、今でも親しい間柄です。
自分自身のアイデンティティーや国籍について深く考えるようになったのも、ちょうどこの頃でした。父の会社に研修に来ていた中華系マレーシア人の方を自宅に毎年迎え入れていたのですが、彼らは英語、マレー語、中国語の3か国語に精通していました。取得していたのはマレーシア国籍だったものの、中華系というルーツもとても大切にしていて。当時日本と韓国のはざまで戸惑っていた私は、国籍を超えて活躍している彼らから得るものがたくさんあったのです。自分のアイデンティティーに思い悩んでいた多感な時期に彼らと出会えたことで、「将来は国際舞台でボーダレスに活躍しよう」という目標を掲げるようになっていきました。
———その後大学ではどのような勉強をされていたのでしょうか?
大学では国際ビジネスを専攻し、ゼミでタイやベトナムを訪れたり、中国の日系企業のインターンに参加したりと、アジアに密接に関わる大学生活を送っていました。
大学の研究の延長でアジアの多国籍企業に興味をもっていたところ、日本人にも関わらず、単身マレーシアに渡り成功を収めた父のビジネスパートナーの存在を知りました。私の目標は、父が会社を経営していたこと、また、幼い頃に日本と韓国のはざまで戸惑い、それを取っ払って国籍を越えてボーダレスに活躍したいと思っていたこともあって、グローバル企業の経営者になることでした。そんな私にとって彼のビジネス経歴はとても刺激的で、いつか自分もこんな風になりたいと憧れましたね。就職活動はしましたが、結果的に、新卒で彼の立ち上げたマレーシアの会社に就職することになりました。
———何故日本ではなくマレーシア企業で働くことにされたのでしょうか?
就職活動では、国際的に活躍できそうな商社や駐在員のポジションを狙えそうな日本の会社を受けていました。しかし、日本の会社に就職したらいつ駐在員になれるかわかりませし、自分が衝撃を受けた経営者の仕事を間近に見るチャンスはそうそう来ないと思ったのです。
この会社での経験は波瀾万丈なものとなりました。卒業と同時にマレーシアに行くことが決まっていたにも関わらず、入社一週間前に言い渡された辞令は、まさかのミャンマー駐在。当時本社ではミャンマーで水産加工食品の品質管理を担う、語学の堪能なコーディネーターを募集していたのですが、当時軍政が敷かれていたミャンマーに行きたい人はひとりもいなかった。そこで、新卒の私に白羽の矢が立ったのです。日本企業と提携して技術提携した商品を海外に出していく、総額10数億円の投資案件でした。
4月1日の入社日は、社長と東京駅八重洲口に待ち合わせして宮城の石巻と女川に行きました。新幹線の隣には憧れの社長が座っていて、何を話したらいいのかわからなくて(笑)。社長は次の日に帰られて、その場で私に下った指令は「3ヶ月間でミャンマーの事業立ち上げに必要な魚介類の水産管理と品質管理を徹底して学び、マニュアルを英語で作成しなさい」というもの。本当に苦労しましたが、何とかやり遂げました。
「ミャンマーに貢献したい」という思いに突き動かされ、移住を決意
———ミャンマーでされていた仕事について教えて下さい。
水産加工工場の立ち上げを行いました。場所は、首都ヤンゴンから飛行機で1時間半以上かかる、誰も知らないような地方都市。当初は「問題がない日はない」と言っていいほどトラブルが続き、まさにサバイバルライフ。工場に侵入した巨大なバッファローをスタッフとロープで捕まえたり、色鮮やかな毒ヘビが事務所に出没したり、配水管にワニが挟まったりと、日本ではありえないような問題ばかりでしたね。苦労の連続でしたが、どんな状況でも品質管理を徹底し、丁寧にチームを築き上げていった結果、日本のクライアント様から「東南アジアで一番の高品質の水産商品だ」という言葉をいただくまで成長できました。
そして、工場経営が軌道に乗り始めた入社4年目に、マレーシア本社で製品マーケティングを担当することが決まりました。しかし、1年後に父の会社で人手が必要になり、悩んだ末に会社を辞めて日本に帰国することにしたのです。
———日本ではどのような仕事をされていたのでしょうか。
ミャンマーで培った管理能力や経験を生かしつつ、特許や私的財産権分野に関わっていました。父の会社には5年ほど勤務したのですが、その間海外でも通用するビジネススキルを磨こうと、カナダのマギル大学でMBAを取得。東京の特別クラスを受講すれば卒業単位との交換が可能だったので、仕事と両立させながら2年間で修了できました。
MBAの取得は、前職時代から抱いていた目標だったのです。新卒の状態でひとりミャンマーに飛び出した私には、当時同期と呼べる社員がひとりもいませんでした。そのため、ビジネス上での自分の立ち位置を把握することが難しく、不安に思うことが何度もありましたね。マレーシア本社に移ると、欧米のエリート教育を受けた社員が数多く在籍しており、彼らのように論理立てて事業を説明する力が私には著しく欠けていると感じ、いつかビジネスを体系的に学ぼうと決意したのです。
———日本帰国後も、ミャンマーとの関わりはあったのでしょうか?
ミャンマーに何かしら貢献したいと常に考えていたので、年に1度必ずミャンマーを訪れていました。今でも工場があったエリアに位置する女子向けの孤児院のサポートを続けて10年以上が経ちます。その中でも、2011年に訪れた時はちょうど民政化が始まった頃で、至るところで変化が起きていましたね。国が開かれ始めたことで先行投資に乗り出す企業が続々と進出。今までの障壁が少しずつ撤廃され、物資が国内に流入するようになっていました。2012年の秋ごろには更に国が変わり始め、この変化の渦中で何か行動を起こさないと周りに乗り遅れるかもしれない、と焦るように。「ミャンマーで成功したい」というよりも、「ミャンマーに貢献したい」という自分の強い思いに突き動かされ、父の会社の事業をミャンマーと結びつけようと画策したのですが、なかなか実現には至らず。どうしても現地で何かをしたかった私は、2013年に父の会社を辞めてミャンマーへ拠点を移しました。
今後の更なるミャンマーの発展には、現地の人々の力が必要
———お父様の会社を辞めるにあたって、躊躇することはありませんでしたか?
父の会社を辞めてミャンマーで挑戦するかどうか、正直葛藤を抱えていたのですが、そんな私の背中を押してくれたのは父でした。ある時、日本企業を見学したいというインドのビジネススクールから連絡を受け、私がインド人を相手に英語で会社案内をしました。すると、その様子を見た父が「この会社でお前の能力を生かすには限界がある。ミャンマーでもう一度勝負してくればいいじゃないか」と声をかけてくれたのです。そして、2013年6月に会社を立ち上げました。
———現在ミャンマーでどのような事業をされているのでしょうか。
ミャンマー人の人材教育や研修事業、そして中小企業の進出支援などのコンサルティング事業を行っています。私がミャンマーの工場で働いていた際に、ミャンマー人中間管理職の重要さを実感した経験が今のビジネスにつながっています。そこでは経験と知識が十分でないため、潜在能力があるにも関わらず力を発揮できない方々がたくさんいたのです。しかし、私なりに試行錯誤しながら指導を続けたところ、彼らの能力がみるみる伸びていきました。今後ミャンマーの発展に必要なのは、「進出企業の現地化を担っていける素養をもった人材」だと思います。彼らはきっと、ミャンマー発展の要になっていくはずです。
私が行うすべての事業の根本には、「ミャンマーの発展に寄与したい」という想いがあります。今後もミャンマー人と一緒に成長しながら、彼らがアジアのリーダーの一員になれるよう、歩んでいきたいと思います。
【プロフィール】
羅 和益 / Ra Kazumori
1978年生まれ。東京都出身。早稲田大学卒業後、マレーシアの複合企業Texhcemグループに入社。ミャンマーにて水産加工食品工場の立ち上げ、品質管理、製造管理の責任者を歴任後、マレーシアにて営業・マーケティングに従事。日本に帰国後、プラスチック加工事業を手掛けるラプロパックにて中小企業の経営に携わる。2013年ミャンマーにて、Amiways株式会社を立ち上げ、現在は子供から社会人までの人材教育の開発に傾注している。カナダ・マギル大学経営学修士(MBA)。
経験した日: 2017年03月13日
by Nnn