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米づくりから「スーパーの人」へ  インドネシアで食文化を育てる挑戦は続く

Posted on 2017年04月17日
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こんにちは、公子です。 



20143月からインドネシアの片田舎で米農家として過ごしてきましたが、2016年に共同経営者との方向性の違いがあり、インドネシアでのお米作りに終止符を打ちました。

日本米づくりに迷いが生じ……

年に45回の田植え、草刈り、収穫、精米、パッキング、そしてトラックで100km先のジャカルタのスーパーへ出荷することの繰り返し。


一方、日本品質を保とうとスタッフの教育に頭を悩ませたり、改善されない田んぼを前に立ちすくんだり、お金に泣いたり、ローカルスタッフとマンディ生活(水浴び生活)をしたり。


日本人が周りにいない環境で、「なんでこんな我慢をしないといけないのだ」と思うこともたくさんありましたが、小さな幸せや人々の優しさ、自然の豊かさのお陰でこれまで続いてきたのだと思います。


日が昇る前に田んぼに向かうその道中、普段のんびり鳥を売っているお店が、朝早くから新聞の配達屋として働いているのを見て、仕事の美しさを感じたこともありました。


見渡す限り田んぼという環境で、「石高でいったらどのぐらいになるのかな」とか、一国の主になったかのような妄想をすることもありましたが、想いだけでは事業は続きません。大きな未来を語っても、そこにたどり着くまでの強い精神力、忍耐力、あきらめない強さと逆境に負けない明るさが必要です。共同経営者とのすれ違いは、そのあたりだったように思います。


小さい組織ながらも、「日本米を作り多くの人に届ける」 事業を育てよう、とお米を本気でやっていただけに、事業から私が外れることをしばらく受け入れられませんでした。

この国で、「次のステップ」へ

「米づくりを離れてどうしようか」という悩みを、インドネシアの日系スーパー「パパイヤフレッシュギャラリー」の市原和雄社長に相談しました。 


このスーパーは、私たちが作っていたお米の販売先であり、米事業の合弁先・投資先でもありました。市原社長からいただいたアドバイスは、「インドネシアでこれまでやってきて、また違う国に行くのではなく、インドネシアでまたキャリアを積んだほうがいい。お米づくりで培った経験を活かした方がいい」ということでした。「食」の分野に携わるようになり、生産を経験。そして、次のステップはメーカーか、加工かなどと考えていましたが、その場で市原社長から「うちに来ない?」という嬉しいお誘いをいただきました。 


作る側からお届けする側へ、キャリアプランがすっと腑に落ち、転職を決めました。また市原社長が、田舎での活動や、サプライヤーとして納品をしていた様子を見ていたそうで、私を買っていただいたことに感謝をし、力になりたい、と思いました。 

経験の「点」を重ねていつか「線」に

いまは生産者側から、お客さまの手元へ届ける側へ。四季がないこの国でも、旬はあります。農家とお客さまの橋渡しが出来れば、と思いながら、野菜・果物に限らず、肉や魚のことを学びながら、店頭で「スーパーの人」として働いています。


パパイヤには、「日本文化の発信 〜食文化、おもてなし、日本伝統行事の伝承に貢献する〜」という大きなビジョンがあります。日本米事業を育てる=文化を育てる、と思いながらやってきたことが、スーパーに転職した今も共通しているのです。いろいろな食品を取り扱い、正月・節分・ひな祭りなどという季節行事を演出したり、おせち・恵方巻きなどの惣菜を提供したり、日本というものを「食」を通してインドネシア人にも伝え続けられているのは、とても誇らしくうれしいことです。


お客さまが「来やすい」「尋ねやすい」「買い物しやすい」、従業員が「働きやすい」そんな「◯◯しやすい」が増える店にしていきたいな、と思っています。6、7年後には、インドネシアで上場するぞ! という目標を社長と掲げています。フロンティア精神を忘れずに、インドネシアでNo.1のスーパーを創り上げたいです。伴走できるメンバーも募集します! 


大きな組織から小さな組織、経営まで、これまでのさまざまな経験が活きている気がします。点と点だったものが、いつか線になる。いまやっていることを無駄だと思わず、単調な作業も自分なりに楽しく面白く出来れば、いろいろな発見ができ、将来役に立つときがきっと来ると思います。 

経験した日: 2017年03月25日

Ambassadorのプロフィール


KOKO

85年生まれ、福岡市博多区出身。大学在学中にイギリスのリーズ大へ交換留学。 海外就労に憧れ、ハウスメイトのガーナ人に相談したら「日本でできることもたくさんある」と言われ、リクルート「九州じゃらん」で、地元福岡のホテル・旅館の営業をしながら地域活性に従事。その後、”都市の劇場”といわれる商業施設「キャナルシティ博多」でイベント企画・館内販促を担当。海外パフォーマー/アーティスト招聘、 通訳、ディレクションなど企画から現場までを行う。 26歳で地元を離れ、名古屋〜東京を経て移り住んだ長野・小布施町での農業との出会いが人生を変える。米農家の日本米の生産・現地法人立ち上げで来イし、3年弱、ど田舎で一人生活をしながら、ジャポニカ米のブランド作りに邁進。経営者撤退に伴う法人解散のち、インドネシアの日系スーパーに転職。現在は、バイヤー・仕入れ、デザイナー・商品開発を兼務し、日本の外から「食」を支えるべく奮闘中。

KOKOさんが書いたノート


インドネシア に関するノート